先の番組「銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々”〜」に付け加えます。
当時、参政権もなく夫の家に入ったら、三界に家なし、姑に絶対服従の女性たちが、戸外での社会的活動に生きがい、光明を見出し、国防婦人会の活動に全精力をかけた気持ちがよくわかります。いつであれ、人は自由を求め、自分の意思で動きたいのです。
戦時下での金属の供出も、近所間で『あそこの家には、鍋がもっとあるんじゃないか』と、お互いに目を光らせ合うようになるほど、こんなのを出さないといけない戦争に先があるのかと感じつつ…。やがて、これは十代の志願兵のリクルート活動にも使われました。供出するものが、鍋から人間に変わるのです。
軍に利用されて、おかしいと思っても、そういう流れに逆らえない、そういうことで、後から考えたら、おかしいことは起きてしまうのです。でも日本が勝っていたら、これもおかしいこととならなかったのでしょう。何をもっておかしい、なのかです。
「しかたなかったと言うてはいかんのです、」というタイトルの戦争犯罪のドラマもありました。熊野以素原作『九州大学生体解剖事件 70年目の真実』(岩波書店)、8/13 22:00放映。罪を自殺で償った人も死刑や労役になった人も無罪放免の人もいました。責任と責任のとり方とはなんでしょう。罪とは刑とは裁くとは法とは?それぞれの立場にそれを正当化する論理や感情があります。
ドラマとなると、どうしても善い者と悪者をキッパリと分ける嫌いがあります。そうでないと共感、感動を得にくいからです。しかし、それが、人に善悪どちらかにレッテル貼りする見方を促すようにも危惧しています。悪い奴もあるときは人助けする、みたいに一人の人間のなかの善悪をも描いて欲しいものですが、ドラマではテーマがぼやけかねないのでしょうね。
美術館の無言館の番組もありました。そこでは、出征して戦死した美大生を戦争の被害者としてでなく、短い青春を燃焼して生き抜いた者としてコメントしていました。最高にかっこよい彼らの最高の輝いた証の作品として。無言で絵が残る。絵が語る。聞き手しだいですが。どうであれ、この短い人生で、作品を永遠に残せるのなら、アーティストとして悔いもないでしょう。
無言館は何回か訪れました。胸打たれる作品もありました。私は、作品は作者やその背景と切り離して、純粋に見ようとするスタンスですが、さすがにここでは作者のプロフィールを読まずにすませられませんでした。
短い人生というなら、病気や事故なり、早世したアーティストはいくらでもいます。一人の人間として見るなら、国防婦人会に全力を尽くした一女性と同じで、生き生きと輝いていた時空が描いたときにはあったろうということです。
あと何十年かの人生があれば、もっとよい作品が描けた可能性を、その充実した時空を戦争が奪った点で惜しまれますが、最高の作品とはなんだろうと考えてしまいます。
原爆を落とされた日を知らない人が増えているそうです。
こうした番組を若い人こそ見て欲しいものです。