fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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「東京オリンピックさなかの原爆の日」

原爆の記念日は、幼児の頃から、黙祷を捧げるように言われ、広島や長崎という地を特別に思っていました。第二次大戦後四半世紀くらいの間は、そうした記憶も生々しく、何より核戦争の危機を突きつけられていました。十代以降、何度かそこを訪ね、そこ出身の人たちと何かと交わるようになると、これは、その地域のそのときだけの悲劇ではなく、日本国、日本人全体に関わることだと思うようになりました。そして今となれば、世界、世界中の人たちが関わることだと思うようになりました。つまり、世界中の人々で黙祷を、ということです。

 

過去の歴史は、いろんな形で紛争の種になります。解釈が自国本意になされるからです。戦勝国、特にアメリカにとっては、やむを得ないことにせざるをえないし、詫びるような形では受け入れられないことでしょう。アジアやヨーロッパもそうでしょう。死者数だけで言うのであれば、もっと多くの人数が死んだ事柄はたくさんあります。

でも、人類史上、最大の科学技術の発明による惨劇の記憶は、別の意味でもしっかりと受け継がれていかなければいけないと思うのです。今や、科学技術の発達に歯止めが効かなくなってきているからです。

 

被爆は日本人が被ってなければ、その後、どこかの都市の人が被っていたと思うことに大した想像力はいらないでしょう。つまり、原爆で亡くなった人に捧げる黙祷でなく、人類の歴史的出来事へ想いを馳せるような形でできないのかと思うのです。日本人とか敵味方とか、そうしたこだわりをそろそろ越えられないのか、ということです。日本人である私たちも、です。

 

オリンピックに政治は持ち込まない、なら、政治ということ以外で扱えないのかということです。

 

下記のような試みがあったことを知りました。今回、継承されないとしたら、なんともあきらめがよいのが、日本人なのでしょうか。

参考:8月6日「原爆の日」に東京五輪で黙とう論議 リオ大会で実行された広島に捧げる「演出」:朝日新聞GLOBE+ https://globe.asahi.com/article/14412157