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弓道

弓を射る術。武士の心身修養。小笠原流日置流(へきりゅう)、古代の競射としては流鏑馬、草鹿(くさじし)。

全日本弓道連盟国際弓道連盟(2006年)、全日本学生弓道連盟、全国高等学校体育連盟弓道専門部。約14万1,000人(平成27年)。 

 

(歴史) 

日本人の長弓使用は、中国の魏志倭人伝(3世紀前半)に。弓矢が威儀を示す行装で、その様式が宮中や武家の行事に使われる。

礼記(中国、儒教経書五経の一つ)の「射義」の思想 

平安時代の中頃(10世紀)の伏竹弓(ふせだけゆみ)、平安末期(12世紀)の3枚打 中国で合成弓(竹と木)

後醍醐天皇の時代 小笠原貞宗・常興が集大成。弓馬術礼法の基準を確立した小笠原氏は、

徳川時代まで将軍家の弓馬術礼法の師範。今川了俊は射術の書として「了俊大草紙」。

日置流の祖、日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)から吉田重賢に引継がれ、さらに出雲派・雪荷派が分派。

竹林坊如成(ちくりんぼうなおしげ)によって竹林派 尾張紀州に定着。元禄の頃に森川香山による大和流、明治時代に本多利実が本多流を創始。

室町時代京都所司代を務めた多賀豊後守高忠による武術書「高忠聞書」に弓返りの射法の得失、竹木合成の彎曲弓による技術の工夫を示す記述。

 

「通し矢」保元の乱の頃 安土桃山時代に盛んに。1606(慶長11)年に京都三十三間堂で100本中51本を射通した朝岡平兵衛、1661-88(寛文・貞享)年には8,000本を越えた星野勘左衛門 13,053本を射て8,133本を射通した和佐大八郎の記録。

速射、打切りの射法、 弽(ゆがけ)の堅帽子へと。

 

1862年、「弓術上覧の儀」が廃止。遊興の道具 盛り場での賭弓場。

1895年、大日本武徳会( 京都)。1919年、武術専門学校を武道専門学校と改称、弓術も「弓道」と改称。大正から昭和初期 本多利実 正面打起しの射法が大流行 本多流

1934年、「弓道要則」。大正、昭和の時代 正課やクラブ活動。1941年(昭和16年)、文部省による体練科武道。1949年に全日本弓道連盟、1950年から前日本弓道大会。競技には近的競技と遠的競技、飛距離を競う射流し。1951年(昭和26年)7月、学校における弓道の実施が許可。1953年、『弓道教本 第一巻』。1967年、高等学校における弓道の科を採択。

 

〇射法について(公益財団法人全日本弓道連盟)

1.足踏み、2.胴造り、3.弓構え、4.打起し、5.引分け、6.会、7.離れ、8.残心

 

礼射系は儀礼・儀式的な要素 小笠原流系統。武射系は日置流系統。

『弓と矢』(オイゲン・ヘリゲル著)ドイツ

射法八節 「弓道要則」の統一打起し(中間打起し)を正式に廃し、正面・斜面の打起し方法を採用 射礼・体配は小笠原の所作。 

馬上の射「騎射」、徒歩の射「歩射」、通し矢の射「堂射」。

弓 和弓の長さ221㎝ 矢 ゆがけ(「弽」「弓掛け」) 弦 的 巻藁、弓手と馬手(めて) 

弓道衣 男女とも白筒袖・黒袴・白足袋、和服

試合形式 近的競技(射距離:28m、的:直径36㎝) 遠的競技(射距離:60m、直径100㎝)、皆当たると皆中(かいちゅう)、1.大前、2.中、3.落(3人での順)。

 

rf.アーチェリー(洋弓) 1958年 国際アーチェリー連盟(FITA)に加盟、アーチェリーは (身体から見て)弓の左に番え、弦は右人差し指、中指、薬指で引く「地中海式」 

弓道は矢を右に番え、取り掛けは右手親指で弦を引っ掛けるように保持する「蒙古式(モンゴル式)」

 

射は人格完成の手段、完全な自我が宇宙と合体しうる。実践、そのなかで行われる生活。

「不動の中心」「術は、術のないものにより、弓を射ることは弓と矢をもって射ないことになり、射ないことは弓と矢もなしに射ることになる」

「矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえに、あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい」

「弓を正しく引けないのは、肺で呼吸するからである。腹壁が程よく張るように息をゆっくりと圧し、下げて、痙攣的に圧迫せずに息をぴたりと止め、どうしても必要な分だけ呼吸しなさい」(「日本の弓術」)

 

(例)1.〇××〇 〇〇××、2.×〇〇〇 〇××〇、3.〇××× ×〇××

午前の午後で4本ずつ、一人8本で1チーム3人なら24射11中

 

参考文献:「日本の弓術」オイゲン・ヘリゲル(岩波文庫)、「青武高校あおぞら弓道部」嵐田佐和子(KADOKAWA) コトバンク全日本弓道連盟Wikipedia