自分が間違いをしても間違っていない、事実を現認されてもなかったとさえ言い張る。そういう人が増えました。間違いや嘘を厳しく罰されたこともないから嘘を通さなければ損とばかりに言い張る、何か得が見えないと応じない。あまりに似ているケースに遭遇します。
「それは何に役立つのでしょうか」、学ぼうとすることにさえ代価を求める、学ぶからには報いられるべきだと思っているからです。学べることの特権を知らない。民主主義や選挙と同じ。すでに日本では、与えられたもの、自ら得たものでないからです。
答えることのできない問いに答えるのはおかしいから、そういう問いには私は答えません。
きっと生活者、労働者として、自己を確立するのでなく、消費者としての自分を、幼いときにすでにもってしまうことが思考を変えているのでしょう。コンビニでの支払い能力は、100円でもあれば、買い手としてのお客様意識をもってしまう。ガキなのに、大人同様に敬語で扱われる。あたかも自分までも商品としての価値でみる、役立つかでみる。
仕事は周りを助けますが、消費は取引です。社会での労働、家事労働は、不快による優位さの獲得なのでしょうか。モンスター化するクレーマーの言いがかりは、取引きにみえてしまいます。
その意味で、役立つとか目的を言えないものを学ぶ、価値判断してはいけないもの、できないものを、それゆえに学ぶのが、学ぶこと、純粋に学ぶことを知ってほしいとも思います。