fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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2016年頭にあたって 2016/01/05

殺されないためには自衛してよい、ということで正当防衛は認められています。そこから正当な軍事力の行使とか、社会で正義とされていることの実践につながります。でも、この理屈で、過度に守るとなると、殺されそうだから先に殺すとなる。さらに自分だけでなく、知っている他人の予防のために殺すともなります。殺されるから殺してほしいとか、殺さないとお前を殺すぞと言われて、殺すことさえ正当化されるわけです。

国や組織は、そうして内と外を区切り、その外にあるものを攻撃してきたわけです。

 アメリカは、中国のために日本を外におくことになるかもしれません。今まで、日本政府が、というか、私たちも含めですが、沖縄や東北をはじめ地方を、ある意味で外においてきたともいえるわけです。

 

 「戦争になれば、殺すより殺されるのを選ぶ」と言う人がいて、若い頃は、それはそれですごいと思ったけど、殺される状況では、人を殺すことを手伝わされかねないから、人は戦ったり、自死したりしたわけです。

第二次世界大戦で初めて敗れ、奇跡的な復興を遂げた日本にいて、降伏してよかったと言うのは、極論です。当時のソビエトと中国に占領されたり、分割統治されていたら、そうは言えなかったでしょう。かつて、日本人は、海外で、よくも悪くも、いろんなことをしましたが、日本のなかでも縦社会での差別はかなり厳しいものだったので、そこからの解放感も大きかったと思います。

私は、日本人が憲法第九条のおかげで戦わずにいられたのでなく、世界中が、特にアメリカが、日本人を再び兵士にすること、戦争に関わらせることを恐れていたと思うようになりました。それは、そこまで戦えた日本人がいたからでもあり、また、そこまで戦ったからこそ、あれほど破壊されたし殺されもしたのです。

憲法ばかり注目されてか、こういう主張をあまり聞かないのは不思議なことです。時代、歴史をもう一度見直してみるときが来ているのです。

 自分は戦わずに逃げるとか、自害するというのは、きっと、命をかけて未来をよくしようというDNAが許さないように思います。他国では政府に逆らえるように各人が銃を持つ、そんななかで、銃がなければ戦いは起きないという、日本人だけが、戦後、思考を止めて、何らリスクマネジメントもできなくなったのです。ここ10年だけでも、戦争という名でなくとも、多くの戦いで多くの人が亡くなっているのに、平和ボケは、ずっと平和でないこともみえなくしてしまうのでしょうか。年明け早々に、物騒な書き出しとなりました。でも、内と外を分けることと戦争やテロは、密接につながっているということを自覚しておくことと思うのです。