「社会が、政治が、会社が、店が、親が、子どもが、「○○が悪いから、こうなった」というのは、わかりやすいストーリーです。○○に何でも入れたら、すぐに使えます。でも、それは、自分をそこに入れているのと同じことです。責任問題のことを言っているのでなく、○○には、いつも何かを入れられる、入れ替え可能、だから、頭のなかでの世界です。
この方式は、大人、マスコミ、ネットなどに与えられた便利なツールであり、ゲームです。スポーツもゲームといいますが、デジタルとの違いは、リセットできないことです。ゲームには、殺されたら生き返れないリセットのきかない身体が、ないのです。
少年Aの本が議論されています。彼よりも、出版社、編集者、読者はどうなのかというのが問われています。売れる本は、そのときに買わないことが多い私でも、今回は買わないでしょう。雑誌に連載を持っているわけでも、コメンテーターの仕事をしているわけでもないので、こういうときは助かります。彼の更生のプロセスが描かれていないというのを確かめるだけのために買う気にはなりません。そもそも、それが描かれていたらよいということでしょうか。
ここで述べたいのは、彼のリセットに、出版が使われていることの是非です。遺族を再び苦しめるというのは、毎年、彼が詫びて出していた手紙の誠意がリセットされてしまうことです。表現の自由は、その行使の自由とは違う。これは、少し前に、シャルリー・エブドのムハンマド風刺で述べました。