fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

「モチベートがかからない」とか「やる気がでない」という質問をよく受けます。私は、人との出会いや映画、音楽、本などに救われてきました。なかでも、人のことばは、大きな意味をもちました。これからは、そういうことを思い返しながら、生きていくのに基礎となった一般教養や歴史、データなどのピースを散りばめていきます。ご興味があれば、そこからググってください。あなたがこの社会と結びつき、生きていくエネルギーとなるのに、少しでもお役立ちできたらうれしいです。[2021/08]

「大学で学ぶということ」 2013/12/21

○足りないこと                                                                                                   何かを論じるには、日本語で考えるのですから、日本語をきちんと学ばなくてはなりません。ことばと身体能力の問題はいくつも述べてきました。芸の上達になるとなおさらです。スポーツでさえ、指導や作戦伝達には言語能力がいるし、それがある方が、断然、有利になるのです。表現の世界で、創造力が必要とされるところではなおさらです。歌えてもアーティストになれないのは、そこが根本的に足りないことに気づくべきです。  そしてもう一つは、誰にも認められずに発信できる時代になったために、認められるまでのギャップ、それを埋める努力の必要性を感じられず、レベルアップできないまま、あるいは、もっと本当はできるのに留まったままの人がとても多くなったことです。便利さは常にプラスと同じだけマイナスを与えるということでしょう。  この場合のプラスは、1,2年で1,2割よくなること、マイナスとは、その後の10年、20年で、そこから大してよくならないことを言っています。   

○「学べなかった」というクレーム

「大学に行ったのに何も学べなかった。ひどい大学だ」このような子供の理論のまま、大人になり切れない人がとても増えたのはどうしてかと思うのです。きっと、「そうだそうだ」と言ってくれる仲間が周りにいるからということもあると思います。  こういうことを言うだけでなく書ける、さらに公にできる、しかも、同士(同じ考えの人)を募れるのが今の時代です。  発表すると少しは憂さが晴れるのでしょうか。大切なのは、その自分の思いの形を見て書いたとしても、出す前に自省することなのです。         ○表現と垂れ流し  表現は、単に言い放つことと違います。ことばで出すというのは誰かに受け止められることを前提としています。それが垂れ流しになるのは、本人のためになりません。  私が記名でしか発信しないのは、ことばに出すというのは、他に受け入れられるところまでの責任を含むのと考えるからです。  そういう意味では、アイスクリームのケースに入って動画をアップしたような人たちは顔出しをしただけ立派です。顔という記名がなければ本人に反応が、この場合バッシングがですが、いかないために学べないからです。  

○創造  

私にとっては、アナウンサーは誰かの文章を読んで伝える、CA(スチュワーデス)も乗客に食事を出すなどする人たちです。それだけでもあり、それだけではない。メディアにすでに個人として名で出て責任を伴っているからです。そこにプラスされる気遣いやサービスが、個人としての着想で実行され、新しい関係を築いたときに、創造的な仕事というのです。いわば付加価値です。  その創造のところをみずに、(大半はできていないとしても)なぜ、この2つの職に憧れる人が多いのかが、日本人の表層的なところを表しています。(今では、かつての華だったバスガイドやツアーリストの方がずっと創造的です) ○「学べなかった」の理  自分の語った「何も学べなかった」ということから学ばなければ、この人は一生学べない。ということです。それを自慢げに、あるいは投げ捨て、投げやりに言うのは、十代で卒業し、二十歳過ぎで一人前の社会人になれた時代でなくなっているということです。  あたりまえのことに気づきにくくなっているのです。  自己責任を論ずる前に、「学ぶのは自分である」という自明の理も学べていない、学ばされていないのです。もしこれを就活の面接で言ったらどうなるのか、婚活でもよいです、自分の愚かさを見事にアピールするだけです。  

○活かす力  

私も大学に行きましたが大学でもっと学べた多くの人よりは学べませんでした。そして、大学をもっと活かせた人よりも活かせませんでした。その分、大学に行っている時期にいろんなものを他で学びました。大学では学べないのにやめるような判断力もなかったのですが、大学ではいくつかのことを学び、何人かの人に知り合えました。それを活かせるように自分を変えていったので、今となれば、これもよかったと思っています。  行かなければ何かしら自己満足していたのを、行くことにより自らの足りないところを知り、努力の方向性を見出せたということです。もともと大学が何かしてくれるわけではないし、(就職のための免状が欲しい人はそれでよいのでしょう)そこに行こうが行くまいが学んでいくべき人生での一つの選択に過ぎません。それを選んだ以上、活かすのは自分の力なのです。   ○お役所的  そういう点で「3年内の離職率が高い=ブラック企業」などという基準をつけたお役所=お役人もおかしいわけです。それには3年以内の離職率の高い理由があるのでしょう。終身雇用を願う人にとっては害ということでしょうか。「3年以内で半分辞めるが後の半分は残る」企業と、「10年とか20年以内に全員辞める」企業とは、どちらがよいのでしょうか。どうせ情報公開するなら3年など、短期的にみてどうなるのでしょう。私からみると、3年でなく10年、20年で放り出される方が残酷だと思います。会社の20年先などわかりません。  

○ゼロ  

自分は自分の名を記して言うと恥ずかしいことしか言えない、ということなら言わない方がよいのです。そういう人は、「本気でやればもっとできたんだ」と悔やむだけで人生を終えてしまう今時のタイプになっています。「私には私が学べなかったことに対する責任は一切ない」「その大学を選んだ責任」にも、「そこに居続けて活かそうとしなかった努力のなさ」にも、「思い切ってやめて、より有意義なところで学び直さなかった不甲斐なさ」にも、今だに気づいていないわけです。  このように表明したことで、何も変わらないし、この考えも生き方も同じなのです。ただ、そう伝えることで同じ轍を他の人に踏んで欲しくないというのなら、今はどのように活路を見出しているかを併記しないと、つまりは、実名でないと説得力ゼロなのです。  私は私の大学時代を、先に述べたように考えるとともに、私がそういう表明をしようものなら、その無知厚顔を批判してくれる人がいたし、周りにけっこういるという想像力もありました。そのおかげで、私は、そんな無駄な時間をくり返したり、天に唾することを避けることができたのです。そこが「いいよ」しか表明しないネットと違うところです。  

○努力の方向  

どんな問題も、自らに責任の一端はあり、それを解決するのも自分自身の能力が問われるということです。今や希望の就職ができなくて大学や企業を非難したり、婚活がうまくいかずに相談所や相手を訴える人も出てきそうな風潮です。  どの大学もまた、そういう学生を抱えて悩み、解決する努力をして、変わってきています。ただ、その努力の方向がCS(消費者サービス)のようになりつつあるのが懸念されます。するとさらに、こういう学生が増えるし、教育が成立しなくなるでしょう。  難しく今すぐ役立たないものよりも、すぐにちょこっと役立つことばかりが求められるようになってしまい、そういう先生が評価される。「いつやるか」は「今でしょ」でも、「いつ役立つか」は「今でしょ」だけでは困るのです。事実そうなってきています。またまた、こういう人を増やしてしまうのです。 ○一方的   レストランやホテルに対し、客の発信する批判の内容にも表れています。「自分はこう感じた」というのは事実ですが一つの事実に過ぎないことでもあります。本当は長期にわたり多くの人のデータがあってこそ意味が生じるのですが、わざわざ批判する人は限られた人たちであり、決して総意でも平均値でもない。いろんな異なる意見のなかでみえてくるものが一方的、かつ特定の色だけになると、客観的データから離れていくのです。  それを避ける取り組みはその人の他へのコメントもみられるようにするなど、いろいろと行われているものの、週刊誌の叩くキャラと同じく、一方的になりがちです。周りに迎合して評価したり、ものを言う風潮が強まるのです。これは、とても危険なことでもあります。  それが勝ち組、負け組として二極化させてしまうのです。そして、同じレベルか、そのレベルより下の幼い人が、またそのくり返しをしてしまうのです。  

○学ぶべきこと  

大学としては、こういう批判に対応するのは返答することでなく改革を進めることでしかないのだと思います。反論という大学の知力を示せる教授が仮にいても、それはただの個人論となるでしょう。救いは「学べた」と嘯く人が多い中で「学べなかったことを学んだ」人もいることです。所詮、「人から教えてもらうのでなく、自ら学ぶこと、それができるようにならなくては、同じことをずっと言い続ける人生になる」ということを学んでほしいと願うものです。

 

○報道について

 

 

 

 報道機関は報じるのが仕事ですから変にジャッジしたり、色をつけるなど、創造的にならなくてよいのです。個人として、キャスターとして、というのも社の方針通りでしょう。日本では、社説どころか、報道機関全てでの、統一見解のような同調圧力がかけられているので、異なるニュースソースや意見、見解を知るのに苦労します。

 

 日本のマスコミは、現場での洞察力が明らかに欠如しています。私たちは、何かを述べるとき決して今の日本の報道機関のようにならないようにしなくてはなりません。

 

 多くの話題は、TVなどメディアの報じたことから発しているので、その見解や意見で染められてしまって、ほとんど自分で何も考えていないのです。なのに、口から出てくるのは、自分のもののように思ってしまう。そこで注意することです。

 

 

 

○いつか言うために

 

 

 

 こう言えばこう言われる、という、言われることへのイメージが働かないのは、言われてきた経験、社会的キャリアがないか、薄いからです。何か言えば、それだけですごいと言ってくれる安易な大人の対応、日本の英会話学校にいるようなサービス満点の先生のような対応が増えたからです。(彼らはサービス業としてやっているのです)

 

 言えない方が大切、深いことが本当は多いのです。ずっと言えないというのではなく、

 

いつか言うために、言えるだけの自分になる努力を優先できないのかと思うのです。

 

 

 

 同じレベルに幼いというのは、生産性のない、創造性のない、進歩のないということです。一言ひとこと愚痴を言ってストレス晴らしてもよいがほどほどにしとけ、という当たり前のことです。それは、そのままでは、人生もうまくいかないし、うまくいかないと、また、そういう方向にばかり思考がいくからです。

 

 

 

 まともな人は、そういうレベルに関わりません。関わると運気ややる気が削がれるからです。だから、私はそういうところから抜けられない人には「忙しくしなさい」とアドバイスしています。負の循環を断ち切るには、誰もみていないところでも、いえ、そういうところでこそマイナスのことばを吐かないことです。自らを腐らせ、周りともうまくいかなくなります。

 

 

 

○本やネットとレッスンの違い

 

 

 

 研究所のレッスンにスカイプを導入してみました。

 

 本だけで学べないのは、本の通りには教えられないからです。ホームページ上の会社案内は、実際の会社とは違います。それと同じです。

 

 教育がサービス化して、本やCD,DVDのようにパッケージ化されたり、イーラーニングになったりすると、本質がみえにくくなります。

 

 

 

○ゲームからの脱出

 

 

 

 学ぶものがない、学んだがムダ、学べない、何を学んだかわからない、そうなるのです。デイトレードとかFXも同じですよ。

 

 選択するのでなく選択をみて、選択以外の答えを探すべきです。探せないなら創ればよいと知り、創り出すべきです。そのために学ぶ力をつけることです。そのために材料として、いろんな学びのケースを学んでいくのです。

 

 どんな大学でも、悪材料でも反面教師でも、怠けサボる生活ばかりでも、何でも自らに活かせるもので、活かしたもの勝ちです。

 

 ゲームでの勝負は、その参加者でなく、ゲームの製作者が勝ちます。宝くじを発行する人が一番儲かるのと同じです。それでよいのです。

 

 少なくとも仕事や芸(術)に関わるために学ぼうというなら、内容・コンテンツを学ぶのではないのです。つまり、学びようのない状態に置かれることで力がつくことが理想なのです。

 

 人から学ぶことで人を学ぶことです。その人の知識ややり方をいくら学んでも、価値は生まれないからです。ゲーム上のトリックをいくつ学んでも、そのゲームだけにしか、せいぜい次のゲームにしか使えません。ゲームをクリアしても世の中は変わりません。しかし、それをつくった製作者は、あなたが「クソゲー」と言っているときに、次のゲーム、次のトリックをつくる努力をしているのです。