fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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「絆ということ」 2012/08/22

凱旋パレードに50万人となったオリンピックでは、国威の発揚、開催したり、出場したり、メダルを競ったりという一方で、竹島への韓国大統領の上陸、サッカーの日韓戦での韓国選手の政治的プロパガンダ。本来、オリンピックは個人、団体の選手間の競争、ゆえにコーチなどの国籍は全く問われないのに、国旗国歌が、表彰式や試合前に使われています。

今回は、東日本震災以降の絆というのが、日本、特にNHKなどでは、個人の力より、団体の力がすごい、というように聞こえてならなかったのですが、確かに個人でメダルを逃がしたのに団体やリレーでとれたとか、バレーやサッカーのような集団戦で強く、特に日本は個人選手の実力よりは団体で勝つ戦略が多いので、ことに強調されているように思いました。
ボルトの「俺は生きる伝説になった」の「俺は」個人、マイケル・フェルプスの「みんなプールで用を足して…」は、団体だし、というのはジョークとして。

話を変えて、家庭のDV、学校のいじめに、「警察が早く入れ」というような風潮になっています。自殺に追い込む犯罪というので家庭や学校、地域社会では手におえないと警察が入る。教育の現場も、早期介入に追い込む。市民や家庭生活、教育、政治に警察の目が光らないようにすることに命をかけてきた人たちの努力がむなしい。何でも訴訟というのも、よしあし。アメリカのような社会が理想あるいは必要だと思うのでしょうか。無制限の自由と絆は、両立しようはないのに。

今のいじめは、被害者により加害者もパッシングされます。その裏に、その二者の関係をつくりだしているような黒幕、賢い本当の加害者は、表に出てきません。ある子に誰かをいじめさせ、イメージを悪化させて、今度はその子を皆でいじめる、いじめる子といじめられる子という、ただの強弱の関係でないのです。弱くても、相対関係とタイミングですから、いじめられた子もいじめられていると認めず、強い側にいようと、ふるまうので教師にはみえにくい。さらに仲間グループでの絆しかないと、他から切り離されるので、そこでの関係がその子のそのときの絆のすべてになります。いじめられても、誰にもかまってもらえないとよりはましと、そのグループへの完全依存状態となるのです。というより、そういう構造をつくっているのです。
ですから「戦え」「逃げろ」というアドバイスは時として、無力です。現実的には、「誰にもかまってもらえなくとも、耐えよ」「絆を切れ」となります。
学校は、先生もクラスメートも選べませんが、一生をそこでおくるわけではありません。それからみると、昔の、家(血縁)、地域(地縁)、会社の一生つづいていたコミュニティの絆の強さよりは、救いがあります。
もっともっとつらいいじめに耐えた人、耐えている人は、いくらもいたし、今もいるという事実をもって、「戦え」「逃げろ」も一人でいることに耐えられるなら、有効です。
「死ぬ」ことをもってリベンジする、命をもって相手にリベンジする、そんな相手に命をもって諭すのは、無駄死に。しかも相手や家庭、学校、いろんな人に社会、世間からのバッシングがかかることを期して、命を犠牲にするというのはあんまりです。命は、代償にしてはいけないのです。「言うことを聞かないと死ぬ」というのは、死が絶対的なものゆえ、卑怯、卑劣なことです。相手を殺しこそしないのですが。車で暴走してまわりを傷つけるのにも似ています。
とはいえ、十代の当事者にとっての悲劇は、こんな計算でなく、まわりにも将来にも希望がなく、いや、考えられないうちに追い込まれてしまうことにあります。どんな苦境であれ、10年、いや5年たてば変わる、未来はわからないのですから、まわりに理解を求め、応じられずに裏切られても、まだその先に、自分の将来において希望を見い出し、生き延びるようにと願います。

話を戻して、一方で、「皆さんの応援で、〇〇のおかげて…勝てた」ような美談が、マスメディアも、選手そのものの口からもでてくるのですが…負けたときに、「皆さんの声援が足らなかった」とは誰もいわないし、それ以上に応援しても負けるケースの方が多いでしょう。結局は、選手個人の実力だと皆知っているのに(本当に知らない人もいるかも。)勝てば皆さんのおかげで、負ければ自分の努力不足と、戦う人は厳しいものです。勝手に国を背負わされて自殺した円谷幸市さんの話が思い出されます。(ちょうど今、日本経済新聞本紙の「私の履歴書」で君原建二氏が書いています)今年の日本柔道も、そうでしたね。
個人で誰よりも厳しい努力して、自分なりの力がきちんとついて本番で自分の役割を充分に果たせてこそ、絆は、輝いてくるということです。このプロセスのところをしっかりとおさえて、「なでしこジャパンの絆」をみなくてはいけないのです。
つまり、自分のやるべきことを全力で、まわりが求める以上に果たす。そこは一人でコツコツとつらくてもさみしくても、誰もやっていなくとも、自分だけが大変でも、そんなことを超えてやって生きていく。その上に、場と機会が得られたら、最高の瞬間を仲間と共に味わえることもあるのです。(ちなみに、個人競技でも、コーチなどチームの力での勝利なのです)金融バクチで儲けても年金や社会保障を不正に受給しても、そのように嬉しいことにはならないでしょう。
セイフティネットは、生きていくことへの最低保障ですが、権利のまえの義務となすべきことをなすことによって、人というのは幸せに生きていけるのです。

いじめの問題は、再三、私が扱ってきた日本の社会のウチとソトの問題が核となってきています。日本だけでないのですが、極めて閉鎖的で自立できていない間での、絆にこだわることが、最大の要因になっています。(いじめについて、山折哲雄氏が日本の「若人衆」に起源をみていたとの論を、日経で読みました)
自分勝手な自由を自立していない人間が好きに求めたら、絆のレベルは下がってしまうか、なくなってしまうものです。「家」が「家族」になって、弱まり、「国」が「ご近所」「商店街」となって、弱まり、「家業」が「職業」となって、「会社」となって、さらに弱まりました。個人が、自由を求めたゆえに、未婚、離婚、離職、就職難、孤独死孤立死で、あたりまえにそうなることが、どうしてこうなったといわれる問題になっているのは、おかしなことです。
近所の商店街で買っていたものをスーパーが安いからと思って見捨てたときにすでに、私たちは、自由の名のもとの利己主義に染まり、絆を一つずつ切っていったのです。なのに、クラスの仲間や変な宗教の絆は、唯一の絆となるほど、切れずに、そこに依存してゆがめてしまうのです。かといって、第三者として、傍観するのはよくありません。個と集団を行き来できる自由と、行き来して関心をもち関わる義務を、一人ひとりがもう少し、行使できたらと思うのです。昔はもう少し義によって動く人がいたと思うのです。義による絆こそが、価値あるものかと思うのです。