やられたらやり返せというのは、自らを次元の低いところへ落とし込むことなので、「右の頬を殴られたら、左の頬を差し出せ」と、世界で欧米人-キリスト教徒が一番苦手なことを、キリストは残したけです。罪を侵してもざんげすれば許されるなど何をもって罪とすべきかということになると、簡単に論じられません。私はやられたら己の不明を恥じよと考えてきました。
悪口を言うような人をまわりから遠ざけてきたのは、自分の弱さがそれに迎合してしまうことが嫌だったからかもしれません。
もう、そんなこともなくなりました。批判は聞いたら改める努力をする、そのために身をさらし、批判も来るようにする。友より敵をつくり、それを刺激にして改革し成長していく。ただし、自分と同等か、下の人とは争いません。けっこうキリストの教えにもとづいていくような。