fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

表現、創作、スピーチ、雑談のネタの欲しい人、今の自分と社会・世界を結びつけたい人、考えを深めたい人に

○老いること

 長生きとは、老いのことで、短くも太く生きたい、あるいは逝折すると、ずっと思って生きてきました。老いの準備は、死への準備です。
 命を大事に、即ち、健康を守るのは大切なことですが、いろんな人の生き様、死に様をみてきて、次は自分だと思う歳になっていくのは、誰しも免れない運命なのです。
 頭も身体も弱くなっていく。しかし、その姿をさらすのも、元気ややる気や才能や努力を示すことと同じくらいに大切だと思うのです。「あの福島も末路はあわれだな」でもよいのです。それも役割です。そこから学んでもらえればよいのです。

 老や死や病を受け入れない人生は、ありえません。生まれてからも、いろんな苦があり、意味があります。そこで少しは喜び、怒り、哀しみ、楽しめたのだから、私はけっこう満足もしているのです。
 しばらく、福言を中断しました。体調もありましたが、心がそれを望んだからです。
 私はもう連載のように、締め切りがあるから書く、書くために材料を探し、無理に話題を取りにいくことが嫌いです。芸のレベルが下がるからです。もちろん、それで鍛えられた時期もありましたし、それを専らプロとしている人には、何を甘えているのかといわれるでしょうし、以前の私なら、今の私に向かってそう言います。

 どこからきて、どこへ行くのか、私は日本から遠く地球の裏のアルゼンチンまで行きました。あのイグアスの滝で豪雨にうたれて、そこで飛び込んだら、誰も止められないと、考えたこともあります。しかし、また地球を半周して戻ってきたら、結局、6畳の部屋を一周することと大して変わらないことに気づいたのです。
 「人間、寝て一畳、座って半畳」ということばがあります。

 500年前なら、コロンブスやマゼラン以上の旅を、エジプトでピラミッドをみて、インドでタージマハールに入っても、それは今の私ではないのです。
 「朝(あした)には、紅顔ありて、夕べ(ゆうべ)には白骨となれる身なり」

 これを思い出すたびに、子供の頃に一休が、しゃれこうべを正月のめでたいときに、掲げて歩いた話が、今はなるほどと思うのです。
 死ぬ日が決まっていたら、「アメリカングラフティ」で最初に死ぬ場面、その後は、そこまでがドラマとしてみられます。最近のまんがの浅間山荘の「チャンス」で、氏名とナンバーと、「死ぬまであと何日」と記されて、ストーリーが進行します。私は今日「死ぬまであと何日なのか」と思うのです。正月には、あと何回正月が迎えられるのかと、あとは四季それぞれに、年に4回くらい考えます。

 自分の願いがなくなると、他人の願いがきけるんだというのも、気づきました。仏や目上の人も、あなたや私に願っているのです。それを聞くことができると、仏教でいう「聴聞」になれるのですね。