fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

表現、創作、スピーチ、雑談のネタの欲しい人、今の自分と社会・世界を結びつけたい人、考えを深めたい人に

「単純にすると」

 たとえば、終戦で日本が公には武器を捨て、63年たって、その頃の記録をもとにした映画が多くの人の眼に触れるようになった。きっと今の我々がタリバンをみるように、日本も世界中からみられていたのだろうと思う。
 日本の敗戦は、奇跡的なタイミングのおかげで、「戦争は悲劇だが、降伏したら平和で幸せ」という強いイメージをうえつけてしまった。そういう中で、戦後の悲劇は忘れつつある。

 「日本は軍の一部の暴走により、大空襲、原爆と悲劇にみまわれた。悪いのは、指導層で、国民はだまされたのだ」と。日本人はトップが愚かで、皆いやいやながら参戦したような、現代史を私たちは教えられた。団塊の世代より後、ヨーロッパよりもアメリカをこがれ、そのライフスタイルを真似して、魂を抜かれた。スポーツ(野球)、スクリーン、セックスと(これは、アラブがドバイあたりから豚肉、酒、セクシーと変えられていくのに似ている)。

 国が個人を飲み込み、市場が国を飲み込んで何が変わったのか。生き残るための戦いは、いつもどこでもなされていて、悲劇が人生を脚色する。人生を演出するのは悪魔であり、人はいつもそれに翻弄される。
 平和と自由は、戦いと不自由から生まれ、平和と自由が戦いと不自由をもたらす。ドストエフスキー、そして黒澤明は、その「神の不条理」を描いた。

 人の心がすべてを生み出し変えていくのは、ドラマチックでは済まされない。「まさか、こんなことが起こるとは」が人生にポジティブに参加することの代償であり、喜びを得るために、それだけの涙を流さなくてはならない。といいつつ、やはり人間は、全世界を統一しつつ滅びるのか、それともバラバラに争いの中で滅びるのか。核を使わなかった知恵は、その世代がいなくなっても、守れるのだろうか。
 バイオ、DNA、環境、ウィルス、世界の危機、一方でネットを中心としたバーチャル化と幼児化による単純な死、心の死がもたされている―。そこには、複雑な世界に我慢ならない怒りとともに、あこがれがある、とみるのは、危険だろうか。(「君の涙ドナウに流れ」を見た日)