手あてとセルフメディケーション
動物はなめて傷を治そうとしますが、霊長類は、手でセルフメディケーションをします。
- セルフメディケーションとは、自分自身の健康に責任を持ち軽度な身体の不調は自分で手あてすること、と世界保健機構WHOは定義しています。
毎日の健康管理の習慣が身に付く
医療や薬の知識が身に付く
疾患により医療機関で受診する手間と時間が省かれる
通院が増えることで国民医療費の増加を防ぐ
などです。
チンパンジーからは、自分以外の仲間を治すようになるそうです。つまり、共感して治療するのです。
手が自由になったことは、二足歩行のもたらした最大の利益の1つですが、単に道具を使うだけでなく、仲間とのコミニケーションをとる上で、とても重要な役割を果たしたのです。
たとえば、手をつなぐと、危ないところを助けたりするだけでなく、お互いの心を通わせたり、慰めたりする役割を果たすのです。
それは、反面、殴り合うことにも使えます。道具をつくり、使って、つまり、武器で何倍も、残虐なことも行えるようになったのです。
それとともに、手で絵を描いたり、文字を使えるようになったことが、とても重要です。二足歩行によって、大きくなった頭を支えられるようになり、脳も進化しました。
それが、今はスマホを持って歩きながら、猫背の悪い姿勢となって、免疫力の低下をもたらしています。道具も、簡易化され機械化され電子化され、筋肉を使わなくなっています。これまた進化ゆえの退化かもしれません。だから、鍛えなくてはならないのです。
自然なものから十分な栄養がとれなくなりサプリをとるように、普通の生活で肉体を使うことがなくなると、ジムなどに通って、筋力保持が求められるわけです。もちろん、頭も使わなくては、ダメになります。
過去への囚われと未来の予知
「バックミラー越しに現代をみている」と、かのマクルーハンは言いました。
バックミラーとは過去のデータのことです。そして、「未来に向かって、後ろ向きに進んでいく」といいます。電波怪獣こと竹村健一氏が広く紹介した人で、いわゆるテレビというものがクールなメディアで世界をどう変えるかというようなことでした。
しかし今となってみれば、それはインターネットにより適合することのように思えます。つまりワンウェイとツーウェイとの大きな違いなのです。
マルチメディアと言われ始めた頃に、ホットなメディアであるラジオのパーソナリティと視聴者の電話のようにツーウェイが理想とされました。それは25年くらい前のインターネットによって実現できる目処が立ち、SNSで現実化したわけです。
私たちは、何か新しいことが起きても、今までの過去の体験にとらわれてしまって見ているので本質が見えないのです。それは新しいメディアが登場したときを考えてみればわかります、インターネットの登場で、孫正義氏はすぐに検索エンジンの重要性を見抜きました。デジタルでは、無制限にデータ情報が集められるところまでの見通しはつきます。私もデジタルの特徴として講義していました。しかし、検索エンジンが、その世界の入り口となり、それを制するものがビジネスの覇者になることは、簡単に予知できないものでした。なんせ初期には情報など蓄積されていないからです。まずは、文字電話のようにしか思えなかったわけです。
ラジオやテレビや電話が登場したときに、みんながそれを最初にどう思い、普及したらどう使われていたかを調べてみるとよいでしょう。テレビが出たときに、ラジオはなくなる、ラジオが出たとき、新聞はなくなると言われました。電話が出て、電報はなくなるし、メールやSNSは、郵便をなくしつつあります。
インターネットで、新聞、テレビ、ラジオ、レコードやDVD、漫画、本、さらに、郵便、送金、投資、店まで、あらゆるものがとって代わられています。桁違いに強い総合力を持つのです。とはいえ、元は電話回線網の強さです。セカンドライフなど、似たようなもので消えていったものを考えてみるとわかります。インターネットこそ、過去のネット網の応用、変形であって、決して新たな突然変異ではないのです。
マクルーハンが言ったことが、インターネットにはどう通じているのかをみるとよいでしょう。過去にとらわれるのではなく、過去に新しいメディアをどのように評価したかというのをみると、今後、新しい状況が現れたときでも予知がうまくできるようになるでしょう。
ときにわれわれは過去にとらわれすぎていると反省することも必要です。しかし、そこからこそ、20年30年先に、どのようになるかの一端が見えるはずです。
トリアージとトロッコ問題、ブラックホークダウン
トリアージの例として、よく使われるのは、トロッコ問題です。暴走するトロッコ、そのまま放っておくと、レール上に犠牲者5人、その前のポイントでレールを切り替えると犠牲者1人、あなたなら、どちらを選ぶのかということです。
日本人は、乗客より歩行者を優先するそうです。「より多くの人数」「高齢者より子供」を選ぶことについては、他国の人より優先度が低いそうです。
思うに、自分で判断した責任を負いたくないから、運命と思って、そのままにするのではないでしょうか。
かつては、出産も命懸けでしたから、母と子の命に優先順をつけることも珍しくなかったことでしょう。主君一人を守るために何十人も死んだ例もあるでしょう。命に優先順位などはないといえばそれまでですが、現実に非常事態は起こります。順位をつけなくては、被害が最大になりかねません。被害を最小にするために、限られたなかで、苦慮の決断をするのであり、そうしなくてはならないのです。また、そうできるように、日頃の訓練、思考も必要なのです。
アメリカの軍隊は、一人の捕虜を助けるために全力を尽くします。身分問わず、一人を助けるために何人もの犠牲を払うこともあります。そのあたりは旧日本軍と違い、合理的です。自分が犠牲になったとき、仲間が助けにくると信じられるからこそ、命懸けで戦えるいう論理であり、倫理です。
かつて、日本人は、非常時を想定しないため、兵士や庶民の命を軽視しました。非常事態では、全く相互信頼はなく、司令部からは、人間以下の扱い、無関心、対応しないとされたのでしょう。日本兵捕虜は、尋問でなんでもペラペラ喋ったそうです。日本人は誰一人捕虜にならないと前提を疑えない頭の硬さには、絶望しかありません。
この度、アメリカは、アフガニスタンから撤退しました。ベトナムもフランスの後を受けて20年くらいで退きました。日本以外、ほぼ統治は失敗となると、どうも日本人として、今も続く、この戦後体制は、決して誇れることではないことが改めてわかります。
ベトナムとアフガニスタンの間では、たとえば、ソマリア内戦への介入、これは、映画「ブラックホークダウン」で描かれています。ヘリコプターが撃墜されての救出、、この作戦で、アメリカ人19人犠牲、ソマリア人千人以上とか、でした。
言語と情調 語感
折口信夫の「言語情調論」では、
「言語表象の完成は、音声の輻射作用によって観念界に仮象をうつし出すことによって得られる」と述べられています。これは、音声を聞くと、ある気分が出てくるようなことです。
「音覚情調」(聴覚情調)を形成するのは「音質」「音量」「音調」「音脚」「音の休止」そして「音位」(斜聴)となります。
それは、語感にあたります。なによりも、身体の機能として、発声ができるようになるには、生まれてから、1年、ある程度、発音を区別して基本的なことを伝えられるには、3年はかかります。それまでに周りの人の言葉のシャワーを浴び、聞き分ける能力がついてから、母語が形成されていきます。そして、周りの人に直されていくわけです。
発音、発声と、感情は、結びついています。人間の基本的な感情は、国や民族を問いません。当然、似たような発音や言葉になることも多いです。笑ったり怒ったり泣いたりするとき、言葉になってないところでの声の感じは、案外と万国で共通しているものです。ため息や疲れたときの声、気持ちのよいときの声なども、です。
それが、オノマトペになってくると、どのように聞くかということもあり、さらに継承されている言語文化に合わさっていくわけです、動物の鳴き声が、ワンワンとバウバウなど違ってくるのは、その一例です。
ベルモンド死去、「男と女」、月、宗教、身体
フランスの俳優ジャンポールベルモンドが、9月6日、88歳で死去しました。「勝手にしやがれ」の俳優です。9日に国葬され、マクロン大統領夫妻、アランドロン、クロード・ルルーシュ、ギョームカネ、サルバトーレアダモなどが参列しました。70歳でもうけた末娘のステラも。ジャンギャバンと同じパリのペールラシェーズ墓地で、火葬されました。
ルルーシュというと、2019年公開の映画「男と女 人生最良の日々」を観ました。
1966年の『男と女』の続編で、主演の二人の52年後を描いています。監督も主演のアヌーク・エーメとジャン=ルイ・トランティニャン、音楽のフランシス・レイも、当時と同じスタッフとキャストで制作されたのです。
当時、同年代で見た人には、特にカップルたちには、さぞや深い感慨をもたらしたことでしょう。ルイもアヌークも30代から80代になったわけです。映画とはいえ、ドキュメンタリーみたいなものですね。私もいろいろと身につまされました。