fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

表現、創作、スピーチ、雑談のネタの欲しい人、今の自分と社会・世界を結びつけたい人、考えを深めたい人に

「再生」

古典や歴史書は、古いからこそ、全てを現代の状況に置き換えられます。つまり、古い具体的なことから、一度、抽象化させて、現実での問いにもってくるのです。

 そういう意味で、小説も芸術も、再生させられたところに価値があります。

時事に合ったものは、わかりやすいのですが、そのまま、今の状況に対しているので、誰もが理解した気になっただけで考えずに終わってしまうことが大半だからです。

「レジリエンス」

ここのところ、レジリエンスということばは、政治的にも使われ、やや偏ってきていましたが、元々は、しなやかな強さ、学び続け、進み続ける意思、メンタリティ、 幅広く柔軟に物事を捉える力のことです。

「いま、ここ」とは、別の時空の両方から考えることが大切だと思います。             

「多様性を認める」

世界は、多様化していくのではなく、元より、多様性に満ちています。ですから、グローバル化ではなく、ローカル社会を個別、独創性を認める方向にしていくと考えるとよいと思います。その上で、グローバルなプラットフォームを利用するということになります。個人の部屋を貸し出すAirbnbなどは、その典型的な例でしょう。                             

「森喜朗氏辞任にいたる発言に関して」

JOC臨時評議員会での森会長の発言】(略)
これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。

 女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。(以上、原文抜粋)


女性に限らず、初めて選ばれた人や慣れていない人は、
話がわかっていないとか要領えないとかいわれるうちは、
発言を控える、ことは、どこの組織でもあります。
わきまえる、ひかえる、をよしとするケースもあるのは、
言うまでもないことです。

そのときのその場の笑いは、その場の人にしかわからないので、
笑ったのは追従も含めて男性で、女性は笑えなかったようには、思えます。
女性も笑っていたのなら、そういうものだったのかもしれません。

 

ただし、トップに立つ人で公開の場での発言において、これはアウトです。
女性の登用に賛成し難いという本音が明らかだからです。

女性を持ち上げつつジョークにして偏見となるのを回避したつもりが、
「女性」と連呼するがために、蔑視どころか差別とみなされる域に、
はまっているのです。

 

私は、批判するより他山の石として取り上げています。
これで日本で意識改革が早く進むなら、
森氏の失態が、結果としてよかったといえるわけです。
森氏と同じ体質の人は、この事例から、今の時代を学び、今後の
言動に配慮しましょう。

で、マスコミなら、その発言全文と実際の事実との齟齬から
論じて欲しいものです。
森氏の関わる組織では、持ち時間という配慮ができないほど、
また同性が発言する機でないと発言する機会がないほど
森氏と周辺だけの発言で進んでいたように察せられますが、
そうなのかということも、です。
そのため、彼はトップでありながら、その立場と差別ボーダーを
自覚できなかったのでしょうか。

森氏を、女性蔑視だ!老害だ、また今回も!と
一方的に、前時代的なステレオタイプの偏見のもちぬし、と決めつけ、
そこから非難するのなら、
報道も世間も、海外メディアも、森氏と同じ愚を犯しているともいえます。
いつもながら海外での反応を、裁定のように重視した日本の報道体制でした。
日本の報道機関での女性幹部の登用率は、さらに低いでしょう。そこも自己批判して改めよ、でしょう。

、、、あれから2週間、森氏の腹心の橋本聖子氏の就任では何も変わりようも
ないのですから、何だったのかと、思いませんか。

「街で聞こえた声の変遷」

私は、先日、篠笛が吹ける人が少なくなり、テープも摩耗し、リコーダーで代替してよいものかという関係者の悩みを聞きました。 

明治の頃、芸妓の太鼓、三味線、歌声、銭湯からは、浄瑠璃、清元、都都逸、端唄、小唄が聞こえました。常磐津、長唄、日本舞踊は、ピアノ、オルガン、マンドリンなどと共に、子供の習い事であったそうです。民謡や浅草オペラ、街では香具師、年中行事も雅楽から木遣節ほか、歌や音楽が根付いていました。

 昭和になって戦後からしばらく、それを継いでいました。サオダケ売り、焼き芋、チャルメラ、チリ紙交換、クリーニング屋などは、私も記憶にあります。

 しかし、労働歌、内付の尺八、三河万歳、お広目屋は、廃れていきました。氏神さまの祭りも変わり、笛、太鼓、お囃子も。